2008-04-26

内と外

どこかで耳にしたお話。とある王様が原因不明の大病に罹りました。ただちにお医者さんを呼んで治療に当たらせましたがいつまでたっても良くなりません。とうとう王様は耐えきれずにそのお医者さんを殺してしまいました。ところがその時の怒りがきっかけで王様の病気がすっかり治ったとさ。

怒りや恐れは(喜びや楽しみも)それ自体病気を引き起こす要因になります。また、同じように治癒の要因でもあります。それぞれ個々に、またその時々でいろいろあるわけです。客観性と再現性などという古くさい考えはもはや通用しません。


一年二十四時間途切れることなく快適な温度・湿度に調整された空間があるとします。天候の変化に左右されない一切の不快を取り除いた完璧な環境。それが科学なるものの理想とする世界です。いますよね。「おまえたち(凡人)はおとなしく管理されていればいいんだ」という匂いをまき散らしている時代遅れの事象科学者さん。いえいえ、科学者に限らず、ほとんどの常識的な方々は環境を征服すること、つまりここでいう快適な空間で一年中暮らすこと、を理想としてきたはずです。地球からの反撃と管理されたいかどうかは別として。

人間には、人間に限らずすべての生命には、環境に順応する能力が備わっています。これはおおざっぱにいうと「生きようとする力」、「命を全うしようとする力」ということになります。このブログのテーマ的には、「自然治癒力」とかいってもいいのかな。専門的にはホメオスタシスとでもいうのかな。

文明の利器、現代でいうところの偉大なる科学の力はどうやら「生きようとする力」を別のもので代用させ衰えさせてきたようです。そのことに多くの人が気付きはじめている。気付いているけどそれとこれとの折り合いのつけ方であれこれ迷い立ち尽くしている。

一定の温度・湿度で快適に管理された空間は、快適かもしれない。かもしれないではないですね、間違いなく快適です。しかしこの管理された空間に慣れてしまえばその空間の外で生きることは難しい。麻薬かなにかの中毒になったかのように縋りつくことになるのが関の山だ。人間の順応力、「生きようとする力」はそれなりの負荷がかからなければ作動しない。暑いから暑さに順応するのであり、寒いから寒さのなかで生きようと適応するわけだ。その必要がなければ衰えるいっぽう。そのかわり偉大なる科学様があらせられるのである。なんてね(科学といったけど、その科学を含めた人類の叡智といわないこと気づいてね。)


まるで麻薬中毒者のように科学漬にされた文明生活を強いられた人間(「安全な社会にあることが前提の人間」)がいまここにいるわれわれそのものであるとして、ならばどうするか。はっきりしていることが一つだけだかある。それは自らの命の管理まで奪われたくないということ。これだけは愚かだといわれようと譲れない。永遠の命など科学と科学者がつくりだした幻想、つまり詐欺・ペテンだ。しかし、どう考えてもこの最後のギリギリの自尊心を除いたその他すべては完全にお手上げだろう。どんなに反発しても逃れられるわけがない。せいぜいが限られたなかで反撃を少しづつ試み続けるほかないだろう。

ゲーテの『ファウスト』にホムンクルスの登場する場面がある。何度も何度も失敗をくりかえしてようやく生まれる人工人間なのだが、なぜ成功したかというと、その瞬間たまたま地震がおきたからだという。
ガラスの容器の中でしか生きてゆくことができないホムンクルスは(「自然の物にとっては宇宙といえども広すぎるということはありませんが、人工の物には限られた空間が必要なのです」)ついには自らの力で内側からガラスを破り外に飛び出します。そんな無茶なと思わせますが実はとても身につまされる問題をはらんでいます。

2008-04-02

未踏の山

病気という、否、健康という山があるとします。寿命といったほうがいいかな。その頂上は見えません。また、山頂を極めた登山家・地元の猟師はありません。おそらく永遠にその頂は見ることも触れることもできないでしょう。それは生きとし生けるものにとって死が必然だからなのですが、これに挑もうとするのは仙人であれ科学者であれ自由です。しかしだからといって科学の力で死を克服できるということは、それがたとえ100年後、200年後といったとしても流言綺語の類といえるでしょう。

さて、この立ち籠める雲によって頂上の塞がれた山の肉眼で見ることのできる最大限の高み、これが現代医学のなかの最先端医療です。最上部にあたる雲の際は一進一退のせめぎ合いが日々行なわれていて、地元の猟師でそんな物好きは一人としていませんが、エリートの登山家、お金と名誉が目当ての冒険家を運がよければ麓から確認できるかもしれません。残念なことは今日より明日、明日よりあさってというように新しい一歩が拓かれることはもはやないようです。油断すると雲が火砕流のごとく登山者を呑みこんでしまうこともあります。

山の中腹あたり、ここは伝統医療の領域です。もちろん高さでは最先端医療どころか七合目、八合目にあたる通常医療にすら劣ります。が、その境界はハッキリしているわけではありません。ところによっては、七合目近くまで接近しているところもあります。山の中腹は植物が豊かに繁茂し、動物も多く棲息し、人の出入りも季節によってそれほど難しくありません。一年を通じて住み着くのは不可能ではありませんが修行を積んだごくごく少数の者に限られます。冬場に限ると人の踏み込むことのできる限界地点の高みよりも厳しく辛いところです。地元の猟師はこの中腹あたりを主な生活の場としています。貴重な動植物が息づき、水や空気が清らかで、それほど人が足を踏み入れない(通過する登山者は多いようです)ので山の恵みのいちばん豊富なところでもあります。

中腹から麓にかけての緩やかに広がる裾野は、個人でできる健康法の世界です。サプリメントや玄米正食、ジョギング、ウォーキング、ダイエット、健康器具、ストレス対処法、禁酒禁煙やタバコの煙とか排気ガス、中国製冷凍餃子などに注意しましょうとか、個々それぞれのおかれている状況次第でお気軽にキャンプやレジャー気分で楽しめる領域です。気軽に行けるので怪しい人たちが怪しい目的で出入りしていても不思議ではありません。もちろんこの怪しい人たちにスキルがあれば可能な限り上へ登ることもできます。ここではふつうに生活ができます。家も建ちますし、規模の大きい街が鉄道や道路ともども形成され、そんなところでは自然を楽しむどころではなく、環境破壊が深刻だつたりします。麓近くでは健康どころか積極的に病気を生み出したりしているところもあるようです。ここが日常の生活の場である以上当り前といえますが。

都市に住む人々は、病気に罹つて自分で対処できないと感じたら自らの足で山に入ります。それぞれの必要に応じて。歩けないほど衰弱していたり、一刻を争う場合はヘリでひとっ飛び。それぞれがそれぞれの文脈で必要なところへおもむけばいいわけですから、高いとか低いとか、狭いとか広いとか、急だとか緩だとかで優劣つけられるものではありません。

代替療法は、利用者の側から見て決して通常医療と二ツ山が高さを競っているものではないのです。(あくまでも利用者視点ですぞ)

2008-04-02

未だ模索中

どうもこっちは(こっちもかな)放置気味です。なんというか。期を失してしまったのではないかと思うときがあります。
どっちにしろどのようにここを続けていくか考えあぐねています。ホメオパチーについてやるとしたら、状況を完全に無視してすっとぼけるか、完全に追いつめられた状況をいかに覆すかという立ち位置ではじめるかしかないのかな。しかし自分は関係者ではない。ならば、範囲を広げて代替でいくか。いや、これじゃありふれている。ならばあっちと被るが咒術をメインに……、そうこうしているうちにまた一日なにもせず暮れていくのでした(どうもすみません)。

いやね。確かに、ホメオパチーはうさんくさいですよ。その胡散臭さがなくなったとき効果もきえるわけだし。やはりどこかシャルラタン的空気があるし、これがなくっちゃ魅力減退です。ホントに。でも、ホメオパチー即犯罪ってのは失礼もいいとこなのよね。科学リテラシーのあるものは歴史リテラシー(ないしは文化リテラシー)にいちじるしく欠陥があるのでしょうか。

愚痴をたれてもしかたありません。ちびちびいきましょう。